RPG的精神論 第一回
 「人は何故RPGをするのか?」

適当でもいい言ってみろ、もしかしたらそれが真実かもしれない。
    ──G.L.グロワローネ


第一部 「建前 こじつけ 嘘八百」

 あなたは考えたことがあるだろうか? 人はいつから遊ぶようになったのかということを。
 人間の歴史において初期の遊びとはそれほど面白い物ではなかった。狩をする大人たちを真似て駆け回る子供たち。兄弟や一族の子供と追い掛けっこをする子供たち。この行動はチーターやライオンの子供たちの間でも行われている物で、何も人間だけの物ではない。そんなものがおもしろい訳がない。しかしこの行動が遊びの原点になったことは歴史が証明している。(そう完全にして偉大なる歴史の中にこそ真実が隠されているのだ。)そうでなければ現在という時代において遊びとはもっと不幸な物になっていたであろう。

 時は流れて平安時代、あなたは遊びといわれて何を思い出すであろうか?・・・・・・・・・そうその通り、貝合せ・歌遊びなどなど、この時代に入り遊びの中心は歌に変わった。しかし歌といっても今皆さんが想像してしまうものではなくて和歌としての歌である。この時代にはいかにうまい歌が読めるかいかに多くの歌を覚えているのかが生きる上での重要なファクターになっていた(編注:もちろんこの時代にもそんなことにかまっていられない人々が多数いた事に賢明な読者の皆さんはお気づきだろう)。まるで今の時代においての学歴と同じように。
 この時代の子供たちはとりわけ不幸である。遊びとして行われてきたものは実は勉強なのだから。

しかしここで救世主が現れた
それがRPGである

 20世紀に入り人類はたくさんの発明をしてきた。その中でもインスタントラーメン・テトリスと並んで不動の地位を収めているのがRPGである(ムギチョコは惜しくもこの枠からもれた)。RPGができたことで人類が21世紀まで生き残ることが出来るようになったことは明白である。アンゴルモアの大王もRPGに恐れをなして逃げてしまったのだ。

 何故にRPGとはここまでにも偉大なものであるのだろうか。それはひとえにRPGが自分の出来ないであろう経験をダイレクトに、そして気分爽快に出来ることにある。
 例えば今あなたはまったく光の入らない洞窟にいって一週間そこでいつ現れるかもしれない敵におびえながら生活するという体験をすることが出来ますか?・・・・・・・・・・・なにできるって。まあそういう人もたまにはいますが、普通の人は出来ません(編注:ちなみに私はやってきました)。しかしRPGにおいてそれは日常茶飯事に起きることです。そこがRPGの醍醐味なのです。非日常で自分ではない自分の分身がみたこともない街で世界で今まで経験もしたことのない未知なる体験をする。本来経験することの出来なかったであろう経験をして、自分の心を豊かにしていく。それこそがRPG究極の遊びであり至高の発明である唯一絶対にして磐石不尽な理由である。

 そしてここに命題である人は何故RPGをするのかという問いの答えが完成した。それは、人の一生は幾数多ある経験の可能性のうちほんの少ししか経験できない、その経験の絶対量を補うのがRPGなのである。人生経験をつむためにこそRPGしなくてはならない定めにあるのだ。
 

第二部 「本音 勢い 極秘事項」

 RPGは面白いだからやる、それのどこが悪い。そのせいで周りから白い目で見られようともそれでいいじゃないか(本当はいや)。そうこれは有名な土木屋のおっさんの言った「そこに山がある、だから切り崩す」という言葉と同じではないか。それにRPGをやっている時のあの興奮を知らない奴に何が分かる、そうゆうのは何回もやってどっぷりはまってから言いやがれ!! この・・・

以下数行にわたり自然環境のために消去

……東山の金さんと大岡越前が戦ったらどちらが勝つかということが大事になってくるんだ!!、そうか分かってくれるか心の友よ」 by剛田 武



本日の名言

そこに山がある、だから切り崩す。
    ――土木屋のおっさん


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